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尊号
学校の先生方は生徒にあだ名を付けられたと怒ってはいけない。これは学校の伝統であり、生徒がご尊敬申し上げる先生方に奉る尊号なのである。それを証拠に我々の場合認めない先生にはあだ名を付けたりしなかった。
我が高校の場合、校長先生は伝統的に「タヌキ」であったので、それ以外に該当しそうな先生がいらっしゃる場合には「まめだぬき」通称「マメダ」なんぞと奉っていた。或る時この先生が身振り手振りで一所懸命授業をされていた。その時級友の一人が「マメダが踊りよる!」とやってしまい、一同のヒンシュク?をかってしまった。当の先生はニヤッと笑って身振り手振りがマスマス大きくなった。
カッパ、コオロギ、カマキリ、ネズミ、又簡単にご本名を縮めて尊号にする場合もあったが、当時はユニークな先生方が多かったと記憶する。
授業内容もそれぞれ個性的で、みなさん雑学の知識も相当なものであった。教科書通りの授業なぞ、何が面白いものか、そんな授業では登校拒否もしたくなる。説明すれば長くなるが、学校の授業は学問だけでなく色々教えるべきだ、案外先生達の脱線話や、雑学が案外イジメや登校拒否を回避する。
物理
物体の落下速度の授業があった。そのとき先生は一つの設問をした「戦闘機乗りが、上空でもよおしたらどうしたと思う?大のほうじゃ。マズ3000めーとるの上空に駆け上がるんじゃ。そしてのお、宙返りして背面飛行に移りそこでいたすんじゃ。XXXは摩擦熱ですぐに炭化して固くなる。これが3000めーとるの上空から地上に落下してきた時、そのスピードはどのくらいになっとると思う?」
生徒たちはすぐに計算を始め3000メートルの上空から落ちてくるXXXのスピードを知ろうとする、これでは公式を覚えられないはずが無い。(後年数千メートルの上空から落下するXXXは、すぐに霧散してしまうと聞いた事があるがどちらが本当やら。
数学
大学を出たての若い先生であった、気合が入りまくり授業内容もあまりにも早く、高校入試も算数だけは100点であった私もついに落ちこぼれた。赤点取得常習犯になり、今でも数学は苦手である。
この先生も1時間だけ雑学談義をしてくれた。「電子計算機」の話しである。二進法がどうとか、真空管がつくかつかないでどうとか、アメリカの電子計算機はどうとか。そのとき私にとっては非常に興味深かったので、ずっと頭の隅にこの話しが残っていた。
それから三十有余年私がパソコンをやってみようと思い立ったのも、この一時間の雑談のおかげであった。
英語
英語は一番苦手であった、今でも下手糞である。うちの高校は夏休みに補習の授業をしてくれた、希望者か赤点取得者が対象である。
私は当然赤点取得の資格で授業を受けた。女の先生であった、教材が配られたとき冒頭に目を走らすとすぐに解った、(シャーロック・ホームズ 緋色の研究)である。私は小学校5年の5月5日に盲腸の手術をし、お見舞いに少年少女版シャーロック・ホームズをもらった。以来ファンとなり当然全巻読破していた。
はっと思って先生の方を見ると、目が合ってしまいニャッと笑っている。早速指名され冒頭を訳すように言われた。やおら訳し始めたが何かカンニングしているようで面映ゆい、隣の席の級友何ぞはウ〜ンとうなって感心して聞いている。あたりまえだ、有名な翻訳家の大先生の訳である。
先生の方をチラッと見るとニャニャ笑っている、完全にバレバレである。それでも訳を終えると先生は全く知らぬ顔で、「非常に良く出来ました、特にこの部分は今のように訳すのが実感が出ていいですね。」穴があったら入りたい、でも悪い気はしない。
以後英語に関しては赤点だけは免れるようになった。
歴史
当時は陸軍士官学校出とか特攻くずれとか隼戦闘隊の生き残りとか、その類の先生も数多くいた。歴史の先生もその類で、終戦の時のショックからか一本ネジが飛んでいて生徒から見てもハチャメチャであった。
最初の授業の時開口一番「俺の授業はでたらめ日本史である。」とはっきりそうおっしゃった。そのため私が習った日本史では当然源義経は吉成思汗になってる。元寇の話しは延々とあっても、鎌倉の幕府体制なぞはすっとばされた。心頭滅却しても楽市楽座はお座なりであった。
しかし当時遊牧騎馬民族の一時間の講義はなかなか新鮮であった、我々の先祖の中にはその昔戦で負けて大陸から放り出された輩も結構いるようだ。近代史に至っては、資本論も国家改造法案もいっしょくた、右も左もあったもんじゃない。「教科書は一応読んどくように」とのお達しはあった。試験の時など井上薫と回答するところで、井上聞多と回答し、Xにしたら設問は聞多時代の業績と反論してやろうと思っていたら、敵もさるもの正解にした上で「入試の時は薫としておいたほうが無難である」と肩透かし。
このような授業内容であったので、生徒たちも裏話やハチャメチャ話ばかり仕入れてくる。「おいお前戦国武将の旗印!お前は義農論、何じゃコリャ?オイお前いくら何でもヒトカップ湾出撃時点での艦隊編成なんぞ試験に出るものか。」かくの如きである。しかしくだんの先生の授業中は先生から生徒にこのような質問がポンポン飛び出してくるからオソロシイ。はい「帰らじとかねて思えば梓弓、なき数に入る名をぞとどむる」ですと、チャント答えなければならない。先生も面白いと思えば生徒に教壇を明け渡してくれる。そのテーマを生徒が代わって講義する、先生も生徒の席に座り受講するわけである。
うちのクラスは開校以来の落ちこぼれクラスと言われていたが、どうした事か歴史の試験の平均点だけは他のクラスをぶっちぎっていた。先生がいいかげんなので、生徒が頑張った?否そのような事は無いであろう。雑学を吸収するには、教科書に出ているくらいのことはシッカリ覚えておかなければ、話しが全然繋がらなくなる。
カクシテ歴史に関してだけは他のクラスの追随を許さぬようになった。
課外授業
ある宵、クラブ(体育会系)の仲間達10人くらいで、某先生のお宅を訪問した。
夏の宵だったのでお宅の庭先で宴会が始まった。高校生のくせに一升瓶がごろごろしている。夜も更け宴はますます盛りあがる、校歌や応援かを歌い始める奴、屋根に駆け上ってほえる奴、飲めない私もしこたまクラってベロベロ。
さすがに午前2時ともなるとご近所のお嬢さんからクレームがでた。「今何時だとおもっているのですか!いい加減にしてください!」まことにごもっとも。その時先生叫んで曰く「お嬢さんあなたもこちらにいらっしゃい、いっしょにやりましょう!」
暫らくしてそのお嬢さんが直接文句を言うためかのぞきにこられた。しかし我々の様子を見て、何を言っても無駄と思われたのか呆れ顔でお帰りになった。まことに出来たお嬢さんであった。
今高校生がこんな事をやれば謹慎停学、教師はクビであろう、良き時代?の話である。
午前4時頃になり、みんなで近所の浜に行った。星空を仰ぎながら砂の上で寝た、夜が明け染める頃潮風が頬をなでる・・・ 青春であった。
教育実習生 (おまけ)
我が校には教育実習生、通称教生がよく来た。将来の教育を担う大事な人材である。
生徒としては、教生の将来をスバラシイものにするために、充分な実習経験を積まれ大学にお帰り願いたいと思う次第である。それにはやはり生徒としては実習期間できるだけ鍛えて差し上げなければならない。教生は始めて実践の教壇に立つ、緊張している人、妙に力の入っている人、人様々である。
国語の教育実習生が来た
生徒は新任教師や教生に対しおもてなしをしなければならない、これも伝統である。こういった場合、生徒は示し合わせている訳ではないが阿吽の呼吸で意思が統一する。
授業が和歌から始まった、当然教生は数分で解釈を行い次に移ろうとする。そこで生徒たちが「先生質問」と挙手をする、教生先生は面食らっているようだが受け付けないわけには行かない。生徒は立ちあがって「先生のご説明は云々だが私はそうは思わない、私はこう言う事だと思う」すると別の生徒が立ちあがり「いやそうではない」と全然別の意見を言う、それからは全員でよってたかって、かってな解釈や意見を述べ混乱の渦に引きずり込む。教生先生は何とか収めようとするが、生徒は全員引き下がらない。和歌の解釈なんぞ何とでもなる、人それぞれの心情や状況で好き勝手に解釈出来る。かように延々一時間一つの和歌で授業を止めてしまう訳である。担任の教師も終業のチャイムが鳴るまで、後ろでニヤニヤ見ているだけで一向に収める気が無い、これも伝統である。
余り遅らせても気の毒なので、次の授業からは手加減して行く。それでも時々は鍛えて差し上げる、そのうち教生先生も馴れてきたのか、シッカリ予習してくるのか我々の破天荒な質問に対し切り返して来るようになる。「ムム、お主なかなかやりおるな!」 かくて有望な先生が巣立って行く。
別のクラスの話し (決して我がクラスではありません。)
そのクラスに地学の教生が来た。女性の教生(女子大生)である。そのクラスは我々のように女性に対して手加減する事を知らず、例によってシッカリ鍛えて差し上げたようだ。
するとその教生先生はついに泣き出し、そのまま帰ってしまった。翌日から我が校に来る事は無かったようだ。まことにお気の毒な話しではあるが、この人はきっと教職以外の天職でばら色の人生を送られていると確信します。
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