蘭 亭

曲水の宴

永和9年(353年)3月3日、王義之が紹興の蘭亭に文人たちを集め曲水の宴を催しました。その時人々に詠まれた詩集の序文を王義之が書きました。これが教科書にも出てきたあの有名な蘭亭序です。

この草稿を書いたとき王義之は興に乗り、随分とヨッパラッテいたようで。酔いが醒めてから毎日数百回も書き直したようですが、この草稿以上の会心作が出来ずそのまま残したという有名な話があります。

王義之先生もう一度たらふく飲んで、グテングテンになってから書けば良かったのにと思ってしまいますね。

(蘭亭の文字は康熙帝の書)
曲水の宴 (曲水流觴)

曲がりくねった小川の辺に座り、上手から流れてくる杯が自分の前に流れてくるまでに詩をつくるという雅な遊びです。

自分の所に流れてきたら、その酒を飲み干し詩を詠むのですが、詩が出来なければ大杯で飲み干さなければなりません。あるいは中国には【則罰酒三觴】という言葉もありますから三杯位飲まされたかも知れませんね。

どなたです?今ニヤリとされた方は。
日本の曲水の宴もこの時の宴がもとになっているようです。

觴(しょう):昔の酒器

鵞池


王義之は鵞鳥が大好きだったようで池に飼っていました。食べても鵞鳥は美味しいようですし、鵞鳥の首のラインが筆を持つ人差指の形に似ているという事で気に入っていたようです。

ある日王義之が【鵞】の一字をを書いたところで、勅旨が来てそのまま出かけてしまいました。その時末子の献之坊やが続けて池の字を書き上げてしまいアッパレ完成です。

これで目出度く親子合作の作品が出来上がったという訳ですが、しかしこれが八歳の坊やの書でしょうか!

さすがに双葉より芳し、やがて王献之は父と並んで二王と呼ばれるようになったそうです。
王右軍祠と墨池


王義之の官職が右軍将軍であったことから王右軍とも呼ばれています。

王義之はここで筆を取りこの池で筆を洗ったので池は墨で真っ黒になっていたとのことです。

回廊の壁には歴代書家による蘭亭序が飾られています。
蘭亭序の真筆は残っていないようです。

唐の太宗皇帝が亡くなる時、自分が大切にしていた蘭亭序を一緒に墓場までお持ちになったようで、今我々が目にするのは皇帝が生前書の名人上手に臨書させたものだそうです。

しかし蘭亭序は古来行書の入門書として、今に伝わり日本でも昔から【天下第一行書】として愛されていますね。

御碑亭

亭内には高さ6.3m重さ8トンの石碑が安置されています。
下の2枚の写真がそれです。

表は康熙帝御真筆の蘭亭序の全文

裏は乾隆帝御真筆の蘭亭即時の七律詩
文化大革命の時はこちらの石碑も受難の時だったようです。一番上の蘭亭の石碑は砕かれその後修復されたようですし、この御碑亭の石碑も上に石膏か何かを塗ってその上に毛沢東語録かなんぞを書いて難を逃れなければならなかったようです。

革命か何か知りませんが全く馬鹿なことをやったものですね、中国が今威張っていられるのもご先祖様の築き上げた歴史や文化のおかげだと理解できなかったのでしょうか?ご先祖の作った温故知新という言葉を忘れては中国が中国で無くなるでしょうに。

もっとも我が日本も【ふるきをたずねる】ということは余りしなくなったようで、よそ様のことを言っている場合ではありませんけどね。
お習字

私の故郷の父は80の手習いと称しここ一年ほど前から書を習っています。(2006年6月現在85歳ですから少しサバを読んでいますけど)

本人曰く「日々精進の甲斐あって一級になった。初段はもう目前だ!」そうです。

カラオケにゲートボールにと何かとご活躍なのでいささか心許ないのですが、不肖の息子としても何とか初段になってもらいたいものと願っている次第です。

という訳で今回亭内にある土産物屋で、蘭亭序の拓本と王義之が蘭亭序を書くときに使ったという鼠の鬚で作った筆(鼠鬚筆・そしゅひつ)を購入し、帰国後写真数枚を添えて贈りました。

これを手本に更に精進してもらって、ええ年内には初段間違いなしでしょう。

何しろ【書聖】王義之ですから!




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